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2008.07.09

赤誠と智取

完訳 水滸伝〈1〉 (岩波文庫)
岩波書店
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昨日の「国家がうまく機能するために」で、中国との比較を通じて「日本の場合、国家がうまく機能するためには、中国(もしくはその他の国)の腐敗を遠ざけつつ、内なる腐敗を防ぎ続けることにあるのではないかと思う」と書いた。この部分について書き足りなく思うと同時に、前からまとめておきたかったこともあったので、書いてみようと思う。

それぞれの民族にはそれぞれの民族の物語というものがあると思う。そこにはその民族の精神やら文化が表されており、実態がその物語とおりになっていなかったとしても、民族の物語は少なくともその民族が自らあらんとするところの理想や目標になっているのではないか、と思うのである。

例えば、忠臣蔵などは日本の「民族の物語」と言えるのではないか。現代の日本人の精神に「赤誠」や「忠義」が実態として有るかどうかはさておき、である。日本人の「かたち」は四十七士のようにあるべきであり、吉良上野介のようであってはならない、という考えはあると思う。人が命をかけるべきは忠義にあって、銭にあらずという、ある種の潔癖症である。そしてそのためには殺人を伴う暴力もまた正当化されるのである。

さて中国ではどうなのか?中国人の「民族の物語」というのはどんなものだろうかと考える。私がすぐに思いつくのは水滸伝の一節「智取生辰綱」である。あらすじでいうと、梁山泊の好漢たちが、皇帝の誕生日プレゼントをとる、ということである。役人に毒酒を飲ませてしびれている内に盗んでしまう。暴力をして奪取したのではなく、知略で取ったのであり、「奪った」のでもなければ「盗った」のでもない。だから「智取」というのである。そしてもともとこのプレゼントは悪代官が皇帝へ渡す賄賂のようなものであり、その賄賂も元々は民衆から搾り取ったものである。だからこれを「取る」のは悪いことではない・・・という考え方なのである。そこには中国人の理屈があるものの、どう考えても日本では「盗った」のではなく「奪った」のでもないといったところで、やはりこれは民族の物語に成り得ないだろう。

この物語をいじ悪く読み解くとするばらな、人が命をかけるべきは「銭」であって、知略を以て取り、人を殺めないのならばそれも正当化されるという考え方が見えてくる。それは中国人の「かたち」の一つと言えるのではないか、と思うのである。無論実態として全ての中国人がそういう人間なのかどうかは別の話である。しかし「智取生辰綱」が中国において広く受け入れられている「民族の物語」であるのは間違いない。今でも中国の出版物などにはよく「智取」という文字が見られる。中国人の好むところであるのは間違いなさそうである。

「智取」を民族の物語とする人たちと、「赤誠」を民族の物語とする人たちの間の交流には、多大なる困難が予想される。それこそが日本人と中国人の間にある問題の根幹なのではないかと思う。

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