【懐疑中国】「日本に行ったことがない中国人」朱建明氏と呉江市地方志工作の研究
■【懐疑中国】「日本に行ったことがない中国人が語る日本」の不思議
上の記事にてご紹介した朱建明さんについて幾つかご報告させていただこうと思います。
2004年7月,半路豸苑ォ地方志工作,邇ー任蜷エ江市档案局地方志郛鮪[科科髟ソ,主要雍溯エ」地方志郛鮪[的荳壼苅指蟇シ工作。
彼のブログのプロフィールにはこのように書かれています。「半路豸苑ォ~」は「途中から~に入った」ということです。2004年7月から?じゃ、その前は何をしていたんでしょうか?プロフィールによれば15年間仕事をしていてたくさん表彰を受けていますから、2004年の前にもちゃんと別の仕事をしていたに違いありません。プロフィールには中学一級教師の資格をもっているそうですから、学校の先生をされていたのでしょうか。プロフィールにも「従事教育」と書いています。でもそれだったらどうして突然地方志の仕事に入ってきたのでしょう?
彼のプロフィールに2004年以後の地方志の仕事ついて書かれています。
2004~2007年,任《同里髟㍽u》特郤ヲ郛門ョ。;
2005年11月~2006年5月,任“蜷エ江蜴・j文化蝗セ文展隗・h、《蜷エ江蜴・j文化蝗セ文集》謇ァ行主 郛磨G
2006年8~9月,任《蜷エ江二霓ョ修志培隶ュ教材》謇ァ行主郛磨G
2006年9月~2009年5月,任《蜷エ江市志》謇ァ行主郛磨C蜷ッ蜉ィ蜷エ江二霓ョ修志工作。
こうやって見ますと、ごく普通の地方史編纂者なのだなぁ、という気がしてきますが、下記のウェブページをご覧下さい。
http://tinyurl.com/yz4waof
▲こちらは呉江市委党史工作弁公室のウェブサイトです。
「蜷エ江史上的“芦、闔・A蜴香A周大屠譚”及蜀尠ッ抗謌倡コェ螳栫v
・・・呉江で起った大虐殺事件と軍民による抗戦の記録ですね。著者名に朱建明さんの名前が出ています。もちろん大虐殺をやったのは中国人民が子々孫々と末代に渡って永遠に憎悪し、恨みをはらさずにはおけぬ不倶戴天の仇敵、日本鬼子=旧日本軍というわけです。朱建明さんはこういう仕事もされているのですね。といおうか、他のページであたってみましても朱建明さんはこの分野にて有名な人物なようで、この大虐殺に関する論文を雑誌や新聞などでも発表されています。
http://tinyurl.com/yzolhqt
▲たとえば、こんな感じです。
党史・・・党史とは一体何でしょうか?もちろん共産党の歴史ですよね。これは例えば日本自由民主党史とか、日本共産党史とか、日本にもありそうですね。他にも会社になら社史というものがありますし、日本人的な感覚だとそういう延長上にあるもののように思いますが、中国ではそうではありません。気になる方は下記をご参照下さい。
■上海抗戦画史(黒色中国)
▲こちらで述べさせていただきましたように、中国の「党史」というのは国の歴史そのものです。日本でも自民党政権の歴史は長いものですが、自民党史と日本の戦後史をイコールで結ぶ事はできません。といおうか、日本の歴史は最初からそういう仕組みになっていないのです。ただ、一党独裁・党国体制の中国では党史と中華人民共和国史をイコールで結ぶ事ができます。党史というのは「中国共産党は国家建設のためにこれだけのすごい偉業を成し遂げたのだ」という記録です。中共の偉業自慢がそのまま国の歴史になるわけです。そして偉業を誇るためにはしかるべき悪者が必要になってきます。悪者には100%悪者であってもらわなくてはなりません。中国共産党の栄光の歴史に傷をつけることは、それがどんなに小さな傷であっても許されないからです。ここに日本と中国が歴史を共有出来ない原因があります。
この話は続けると長くなりますので、この辺にしておいて呉江市委党史工作弁公室の話に戻りましょう。
先ほどご紹介した弁公室のウェブページには朱建明さんと一緒に「費雲林」という共著者の名前が見えます。一番下には
(作者蜊譜ハ:蜷エ江市档案局)
・・・と書いてあります。つまりこの文章は档案局のものであって、党史工作弁公室のオリジナルじゃないんですよ・・・ということですよね・・・ふむ。たまたま市の地方史の仕事で大虐殺の記録をやってたから、弁公室が文章を借りてきたんでしょうか?そうかも知れませんね。じゃあ、この党史工作弁公室というのは自分では文章を書かないんですか?何をしている組織なんでしょう・・・と思って彼らのウェブサイトをくまなく調べてみても、この弁公室が呉江市のどこにあるのかは記載されていないのです。
変ですよね?・・・一生懸命さがしてみたけれど見当たらないんです。
でも、その代りにこんな文書を発見いたしました。
http://tinyurl.com/yf3o88d
▲ワード文書です。クリックすればダウンロードが始まります。ファイルダウンロードが嫌な人はこちらをクリックしてください。百度でHTML版を表示できます。
「呉江方志簡報 第9期 呉江市地方志編纂委員会」
ドメインは呉江市档案局のものです。これはつまり呉江市地方志編纂委員会のニュースレターです。でも・・・例えばですよ、日本の地方都市の地方史編纂室がわざわざニュースレターまで出しますでしょうか?東京とか大阪とかの大都市ではないですよ。呉江市は蘇州市の下の県級市です。なんじゃこれは・・・と思って読みすすめましたら、次のような箇所を発見しました。以下長いので重要箇所を抜粋します。
【"机譫ч・v"郛鮪[荳壼苅霎・ッシ】
1994年出版的《蜷エ江蜴ソ志》蟇ケ局郤ァ机譫ч・v没有比霎リョ整的隶ー述,只是在"蜴ソ委工作机譫關"和"蜴ソ政府直属机譫關"中有所隶ー述,扈ュ修的《蜷エ江市志》准螟㍼ォ机譫ч・v也一并予以隶ー霓ス.霑呎黴キ做,主要是基于三个方面的考陌驗:
(以下拙訳)【“機構沿革”編纂業務指導】
1994年に出版された《呉江県志》は局級機構沿革について比較的完整した記述がなかった。「県委工作機構」と「県政府直属機構」の記載のみである。続修《呉江市志》は機構沿革の記載も共に予め準備される。ここで重要なのは三つ方面からの考慮に基づくことである。
これは呉江市地方志編纂委員会が県から市に昇格した呉江の歴史書の改訂版を用意しておりまして、その委員会内で、前の版では局級機構の沿革のちゃんとした記載がなかったから、次はきっちりやろうね・・・という話です。この後でああやるべきだ、こう書くべきだ・・・みたいな話がずっと出てきます。タイトルの通り「業務指導」をしているのですね。
中国の歴史というものはみなさんご存知の通り、いい加減なものですよ(笑)。でも書く方はプロです。何と言っても4000年の歴史。史実の真偽はともかくとして、歴史を記すということについては、長い歴史を持っている国です。そういうテクニックというのは、このようにして脈々と受け継がれていくわけですね。
で、事例をお見せしよう、ということで呉江市地方志編纂委員会の沿革が出てきます。ここからが重要なところです。重要部分は太字にします。
示例一:地方志机譫щy髦沍゙
一、机譫Ыr
自1984年起,蜷エ江的地方志工作就有明遑ョ的鬚・ッシ机譫・a工作机譫пC但均荳コ非常隶セ性机譫пB鬚・ッシ机譫ю謐@荳コ中共蜷エ江蜴ソ委党史襍・ソ征集小扈пA中共蜷エ江蜴ソ委党史襍・ソ征集研究委蜻・錡、蜷エ江蜴ソ地方志郛鮪[委蜻・・a蜷エ江市地方志郛鮪[委蜻・・B20世郤ェ80年代,蜷エ江螳檮s地方志和党史机譫ы㊧黶G90年代起,螳檮s地方志与档案机譫ы㊧黶B
(以下拙訳)事例1:地方史機構及び組織
1、機構
1984年より呉江地方史工作には明確な領導機構と工作機構があった。但しそれは常設のものではなかった。領導機構は呉江県委党史資料征集小組、中国共産党呉江県委党史資料征集研究委員会弁公室、呉江県地方史弁公室と呉江市地方市弁公室である。20世紀80年代、呉江では地方史と党史機構が合併された。90年代より、地方史と档案機構が合併された。
つまりに1984年以後の地方史編纂を指導監督する組織には党史関係の組織が絡んでいたということですね。中共党史=中国国史なわけですから、地方史=各地の共産党史になっていないとよくないわけです。政治組織と行政組織の融合・・・こういうことが良いか悪いかは別にして、この整合性が中国=中国共産党のパワーの源であるといえます。それとちょっと説明が遅れましたが「档案」とは公文書のことだと思ってください。つまり90年代には地方史が公文書機構と合併したということです。すなわち中国共産党史が中国の公文書とイコールに結ばれたということになります。これを今の日本に置き換えれば、自民党の党史編纂部門が、公文書館の中に置かれているような状態なのです。
この後、本文は領導機構と工作機構の変遷を説明しています。領導機構の変遷は飛ばして、工作機構の変遷を見てみます。
竰燕H作机譫пB1984年1月,中共蜷エ江蜴ソ委党史襍・ソ征集小扈・萱公室(同年10月更名荳コ中共蜷エ江蜴ソ委党史襍・ソ征集研究委蜻・・萱公室,中共蜷エ江市委党史工作委蜻・・萱公室的前身,以下邂称“党史蜉栫h)下隶セ立地方志小扈пi王国增任扈・柄),雍溯エ」全蜴ソ的地方志郛鮪[工作。1986年9月,蜴ソ地方志郛鮪[委蜻・・コ隶セ蜉梃コ(隶セ在党史蜉栫C邂称“蜴ソ地方志蜉梃コ”),雍溯エ」具体日常事蜉。,蜉梃n点在蜴ソ政府大院内。蜴ソ地方志蜉梃コ荳コ非常隶セ性机譫пC主任由党史蜉桾ェ管地方志工作的副主任兼任。1990年8月,蜴ソ地方志蜉梃コ并入蜴ソ档案局(蜴ソ政府大院7号楼),蟇ケ外行使閨券仍称蜴ソ地方志蜉梃コ。1992年5月,蜷エ江撤蜴ソ建市,蜴ソ档案局、蜴ソ地方志蜉梃コ分蛻ォ更名荳コ市档案局、市地方志蜉梃コ。1997年3月,市档案局增隶セ地方志郛鮪[科(人蜻倡シ鱒ァ2人),承担原市地方志蜉梃コ的相蜈ウ閨券。市地方志蜉梃コ主任由市档案局分管地方志工作的副局髟ソ兼任。2006年5月,市档案鬥・V鬥・シ鬥・C市地方志蜉梃コ随市档案局(鬥・j霑℃且s区中山南路1979号。
(以下拙訳、わかりやすいように改行とを入れ、年月を太字にします)2.工作機構
1984年1月、中共呉江県委党史資料征集小組弁公室(同年10月中共呉江県委党史資料征集研究委員会弁公室に改名、中共呉江市委党史工作委員会弁公室の前身。以下“党史弁”と略す)の下に地方志小組が設立され、全県の地方史編纂工作を担当することになった。1986年9月、県地方志編纂委員会の下に弁公室が設けられた(党史弁に設けられた。略称“県地方志弁公室”)。具体的日常事務を担当し、県政府大院内にあった。県地方志弁公室は非常設性機構であるため、主任は党史弁の地方志工作副主任が兼任した。
1990年8月、県地方志弁公室は県档案局(県政府大院7号楼)に入っが、対外的に職能を行使する際は県地方志弁公室と称し続けた。
(※:県政府から档案局に引越ししたけど名前には「県」がついたままでした、ということです)1992年5月、呉江は県から市になり県档案局と県地方志弁公室は、市档案局と県地方志弁公室に改称した。
1997年3月、市档案局は地方志編纂科を増設した(人員編成は2名)。市地方志弁公室に関連する業務を担当。市地方志弁公室主任は市档案局の地方志工作の副局長を兼任した。
2006年5月、市档案館新館開館、市地方志弁公室は市档案局(館)中山南路1979号へ移った。
この後本文の方では編纂委員会&弁公室の領導任職状況表という資料に入ります。朱建明さんの共著者であった費雲林さんは2006年9月から2007年6月まで副主任をされています。
まとめに入りますと、元々呉江の地方志工作というのは、全て党の仕事だったんだけど、その後で場所が県政府の中に移り、档案局に引越しし、それから档案局の方で人を二人つけてくれた。現在その二人の内の一人は「日本に行ったことがない中国人」の朱建明さんで、科長を務められている、ということです。
それと地方志工作というのは常に党による管理を行う領導部門と、実務を担当する工作部門の二本立て、ということですね。昔は実務も党内の小組でやってたんだけど、今は档案局にシフトしている・・・。
ここの部分を例えていうと、人民解放軍には政治将校制度というのがありますけれど、それに似たようなものと言えるのではないでしょうか。費雲林さんは政治将校、朱建明さんは伍長ぐらいにあたるわけです。
このような状況の下で、朱建明さんは呉江地方志=呉江中共党史の編纂のため、日夜お仕事に励んでいらっしゃるわけですが、それにしても・・・どうしてサーチナはわざわざこういう人のブログを引っ張ってきたんでしょうね?それとこのような機構に所属し業務を行っている朱建明さんが、勤務時間にブログを開設し、7月10日からいきなり連続投稿で予め準備した文章をぶち込んで、その中の一つに、行ったことはないけれど、お仕事の関係で60数年前の戦争犯罪にはやたらと詳しかったりする日本を、日本人が読んでいてもこそばがゆくなるくらいに賛美した記事を含ませている・・・それを偶然サーチナの社員が発見して、翻訳して、朱建明さんの記事公開から3日以内にネット上で紹介する・・・いやはや、なんだかものすごい話ですね。
本当は「渡鬼」や「燃えよアタック」の大ファンで密かに日本へ憧れているんだけど、党から派遣されてきた政治将校の下で毎日嫌々に日本帝国主義の戦争犯罪を記録する仕事をやらされていて、それでたまったフラストレーションと心情的矛盾のはけ口として、ある日勤務時間中にブログ開設を思いつき、いつもの反日歴史の仕事で鬱屈させられた愛日本の想いを書き綴ったのが、たまたまサーチナの社員の目にとまった・・・そうだったらいいんですけどね。あの文章が朱建明さんの「仕事」ではないことを心より願っております。



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