2009.12.29
曹操墓について
■三国志・曹操の墓発見=副葬品に「魏武王」、遺骨も-中国河南省(時事通信)
新華社電によると、中国河南省文物局は27日、北京で記者会見し、同省安陽県安豊郷西高穴村で発掘された後漢時代の墓が、三国志の英雄で魏の始祖、曹操 (155~220年)の墓「高陵」と確認されたと発表した。矛や枕などの副葬品に「魏武王」の銘文があったことを最大の根拠とし、出土した男性の遺骨が 60歳前後と推定され、歴史書に記載された享年と符合するという。
この数日、「曹操墓」について調べようとして当方を閲覧される方が後を絶たない。
ツイッターで少しだけ曹操墓について触れたのだけれど、このウェブサイトの左側にある、ツイッターのつぶやき表示が検索エンジンに捕らえられたらしく、それで次から次へとやってくるようになったみたいだ。
「黒色中国」は中国の歴史も扱うものの、主に近現代史の範囲である。
でも、折角こちらにこられた三国志ファンのみなさんにがっかりしていただくのも悪いので、ツイッターで書いた内容を再整理して「黒色中国」風に掲載しようと思う。
まず、場所はここである。右の方を見ると鉄道も通っているし高速道路もある。安陽駅というのが最寄り駅だけれど、調べてみると歴史も古いし(1904年…清末である)一等駅である。全くの田舎という雰囲気ではない。駅は昔「彰徳府駅」だったらしい。なんとも歴史の香りがするような名前である。調べてみると長い歴史があるけれど要約すると、昔から栄えていて明清のころには府(県と省の間の行政単位)が置かれていた。民国になってから廃府となった・・・という場所なのである。
こちらは中国のテレビニュースの映像。こういう建造物を1789年前頃に作って、今でもちゃんと残っているというのがスゴイ。
■曹操高陵在河南得到考古遑ョ隶、 墓室或藏曹操驕絡鰀’(中央人民广播逕オ台)
↑こちらに写真と解説(中文)があります。全11ページ
4ページ目に「魏武王常用格虎大戟」と書かれた石の銘牌が出てきます。「魏武王がいつもつかっていた武器」ということですね。
■高陵(百度百科)
百度百科でも既に解説が出ています。
果たして今回確認された曹操墓はホンモノなのかニセモノなのか?という議論があります。
出土品を見ていると確かに三国時代のものっぽい感じです。でも、贋物製造をやっている連中はかなり研究して作りますから、それっぽいというだけではアテになりません。
ただ、当方ではこれがホンモノなのではないかな・・・と思っています。
実はこれに先立って1998年に出土した「魎$謗u」というのがあります。
与出土的文物共同指明霑刪鼬テ墓荳コ曹操墓的霑・L一蝮絡ン1998年被隸・村村民徐玉超起土譌カ謖柾o的一蝮鈴イ$謗u,志文提到了魎$諡鈴ー武帝陵的方位与距遖サ:“墓 在高决譯・陌西行一千四百豁・,南下去陌一百七十豁・,故魏武帝陵西北角西行四十三豁・,北回至墓明堂二百五十豁・。”霑剽「所隸エ的魏武帝陵蠎碑ッ・就是高陵(西陵),高 决譯・蠎碑ッ・荳コ高穴譯・,古代“决”通“穴”,霑呵ッエ明曹操的墓地蠎碑ッ・在西高穴村附近。
徐玉超さんという人が見つけた「魎$謗u」というのがあって(「墓志」というのは石で出来た文字盤で、そこに埋葬されている人の説明書きのことです)、そこに「魏武帝」の陵墓の場所が書かれているのだけれど、それが今回の「曹操墓」の場所と一致する・・・ということなのだそうです。
ただ、ここで2つの疑問があります。
1つ目は「魎$チて誰なんだ?どうしてそんなことを知っていたのか?」ということ。
調べてみると魎$ウんというのは後趙の建武11年(西暦345年)に亡くなられた人で、官職名が「大僕卿鬧剩n都尉」というらしい。調べてみると「鬧剩n都尉」というのは皇帝の女婿がつくことの多い役職らしい。とすればこの人は後趙の第三代皇帝の娘婿だったのか?ということになります。ただ、ここまで来ると検証が面倒なので途中で辞めます。
で、「魎$謗u」の内容を引っ張ってきました。全120字です。
趙建武十一年大歳在
乙巳十一月丁卯朔故
大僕卿鬧剩n都尉勃海
趙安縣魯潜年七十五
字世甫以其年九月廿
一日戊子卒七日癸酉
葬墓在高决橋陌西行
一千四百廿歩南下去
陌一百七十歩故魏武
帝陵西北角西行蜊月O
歩北迴至墓明堂二百
五十歩■上黨解建字
子奉所安墓入四丈神
道南向
私はこの手の古文は全然読まない人なので、素人解釈で恐縮なのですが、折角の墓志の中で、半分近くは自分の墓と曹操の墓の位置関係の説明で終わってしまうというのは一体何なんだ・・・という気がしてなりません。もっと他に書く事はなかったのか?大体墓志というのは墓のそばにあるものだから、位置情報を書かなくてもよさそうなものです。それにこういうことが一般的なことならば、曹操墓の周囲の古い墓からぞくぞくと「ウチの墓は曹操墓から何歩で・・・」という墓志が出てきてもよさそうなものです。
魎$ウんの没年は曹操の125年後ですから、近所の人ならば墓の位置を知っていたのかも知れません。もしくは墓の建設に携わった人たちが近所にそのまま住んでいたりとか。皇帝の娘婿だった(かもしれない)ので曹操墓のことを知っていたのかも知れません。
この魎$謗uは1998年の出土なので、もし曹操墓がニセモノだったとしたら、この魎$謗uだって仕込みということになります。でも、わざわざ仕込んでから11年も待つのか・・・とも考えてしまいます。
ただ、長年中国とお付き合いしている当方の見解を申し上げさせて戴きますと、中国人にとってそれくらいの手間隙かけてウソをつくのは朝飯前でやってのけるのは間違いない、と思います。近年でも尖閣諸島に中国の古銭を投げ込んだりしておりましたけど、彼らは平気でそういうことをやるのですね。ウソをついて何か得をするとすればどんな捏造でもやってのけるでしょう。
でも、今回の曹操墓といのは、それほどがんばってウソをつかなくてはいけない理由というのがあまりピンとこないのです。
観光名所になって儲かるではないか・・・といっても、そのために社会科学院まで巻き込んで捏造やるのは、ゼニのためならテマヒマ惜しまず・・・といってもやっぱり面倒な気がするのですね。政治的な理由も特に思いつきません。墓の中から石碑でも出てきて「チベットも新疆も釣魚島も琉球も魏の領土じゃ」とか書いてた、っていうんならわかりやすいんですけど(笑)。
そこで先述の「2つの疑問」の2つ目になるのですが、「魎$謗u」で位置情報が書かれてあるから、ここは曹操の墓に違いない!というのならば、曹操墓の墓志には何て書いてあるのか?ということです。
そこで調べてみたんですけど、どうやら墓志は見つからなかったみたいなんですね。
↑つまり「曹操墓には墓志はなかった、とっても遺憾だ」ということです。
だから、状況証拠的なもので断定していくしかないんですね。現段階で既に社会科学院は曹操墓だと決めているみたいですけど、研究の成果がもう少し出てくるのを待ってよく見てみようと思います。
著者/訳者:陳 寿 裴 松之
出版社:筑摩書房( 1992-12 )
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文庫 ( 549 ページ )













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